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教文能

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金剛流と宝生流

金剛龍謹(金剛流)

インタビュー

「熊野」について

現代人にとっても共感しやすい普遍的な心理が、「熊野」には描かれているのではないでしょうか。たとえば、親子がお互いを思いやる気持ちや、桜の花を愛でる四季の移ろいといった日本人ならではの感性です。こうした情感は、人間の根源的な心の在りようであり、現代に生きる私たちにも自然に理解できるものだと思います。
また、男女の恋心も含めて、違和感なく受け入れられるテーマ性があることが、この曲が長く愛される理由の一つといえるでしょう。三島由紀夫の『近代能楽集』において「熊野」がオマージュとして取り上げられていることからも、その本質的な魅力は時代を超えて通用することが分かります。つまり、現代的な作品へと昇華できるのは、もともとの戯曲としての完成度がきわめて高いからといえるのではないでしょうか。

今回の「熊野」、そして宝生流の「船弁慶」にはそれぞれ女性が登場します。二人が置かれている状況は異なりますが、この時代に生きる二人の女性の心情に共通点はあると思いますか?

想う相手――つまり愛する人がいて、その人のために行動しようとする芯の強さのようなものを、今回の能で登場する女性に共通して感じます。ただ、「熊野」の平宗盛との関係はちょっと違うなとは思うんですけど(笑)能に描かれる女性像というのは様々で、難しいと感じることが多々あります。昨年私が勤めさせていただいた「求塚」の菟名日処女うないおとめなどがまさにそれで、「この人をどのように理解すればよいのだろうか」と迷うことがありました。現代の女性からすると、おそらくあまり共感できない人物像かもしれません。もちろんやりがいのある作品ではありますが、心情の理解という点ではやや取っつきにくさを感じました。その一方で、類曲である「きぬた」などは、現代人にもずっと分かりやすく、心情的に共感できる要素が多いように思います。このように、能における女性像には実に幅広いあり方があり、その多様さがまた魅力なのだと感じています。

今回の教文能では金剛流と宝生流を取り上げますが、他の流儀同士での交流はありますか?

現代ではとても多く行われていますね。異流競演の会も時折催されますし、色んな会でご一緒する機会も少なくありません。例えば、東京ではセルリアンタワー能楽堂の「渋谷能」で、五流の若手が集まり、協力して会を作り上げる試みも行われています。京都においても、平安神宮の京都薪能をはじめ様々な場でご一緒させていただいております。このように、現代では流儀同士の交流が盛んですが、流儀ごとの芸風の特色がやや薄れてきているように感じます。昔はそのような機会は少ないこともあって、それぞれの流儀に強い個性があったのだと思いますが、現在ではその特徴が次第に似通ってきている傾向があると感じます。流儀同士の交流が活発になることは、そうした個性の共有化が進んでしまう一方で、様々な気付きを得ることが出来るので大変意義深いことだなと思っています。

普段の生活において、能を意識する場面はありますか?それはどんな場面ですか?

私たち能楽師の場合、日常生活の中でも能を意識していることが多いんですよね。普段の生活で歩いているときや、立っているときなども、姿勢は常に意識しています。舞台の上で急に正しい姿勢を取ろうとしてもなかなかできませんから、日頃から気を配るようにしています。出かけ先で、街のショーウィンドウに映った自分の姿が気になって、思わず構えてしまうこともあったり…。また、京都の街を歩いていて、ぶつぶつと独り言を言っている怪しげな人を見かけたら――それは舞台のために必死に謡を暗記している最中の能楽師かもしれません(笑)。

10月の公演に向け、札幌(北海道)で公演することへの印象はありますか?

札幌という土地は、私にとって一つの憧れの地でございます。京都から遠く離れた広大な大地で――京都は盆地ですから、どこを見ても空は狭く、山に囲まれている景色ばかりです。初めて北海道を訪れた際に、地平線が見えることに心から感動しました。そのような雄大な場所で能をさせていただけることは、私にとって大きな喜びであり、また楽しみにも感じております。能の魅力の一端でも皆さまにお伝えできるよう、精一杯勤めさせていただきます。

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