「夏と冬に文化の季節を」というコンセプトのもと、それぞれ「夏まつり芸術劇場」、「雪まつり芸術劇場」と名付けた事業を1983~1985年の3年間にわたり開催。1~2カ月にわたって演劇、バレエ、舞踊、人形劇などの自主事業を中心とした多彩なプログラムを楽しめる内容で、好評を博しました。
また、雪まつり芸術劇場では、複数の劇団から参加した演劇人と一般参加者による合同制作や、複数の高校演劇部による合同制作を積極的に実施。この合同公演で培われた経験をそれぞれの創作の場に持ち帰ってもらい、そこから生まれた作品の単独公演を行う場として考案された企画が、現在まで続く演劇フェスティバルです。初開催は1985年で、夏まつり芸術劇場プログラムの一環として実施されました。
[世の中の出来事]
「高校演劇を含めた札幌の演劇の活性化」を願い1985年に初開催された教文演劇フェスティバル(以下、演フェス)は、1987年、1989年と隔年開催されました。
第1回目(1985年)の演フェスでは、東京から招聘した「流山児・事務所」と「本多劇場」による公演、市内からは「劇団白戦」、「劇団新劇場」、「劇団ペルソナ」、「劇団にれ」による公演を実施。
第2回(1987年)は「劇団新劇場」による一般向け作品の上演、「劇団にれ」と「劇団シアターⅡ」による児童劇の連続公演を実施しました。
第3回(1989年)には、出演劇団の公募もスタート。この年は「劇団新劇場」の公演、「劇団にれ」と「劇団シアターⅡ」による児童劇の連続公演、教文演劇セミナー(1985年開設)の中間公演という内容でしたが、現在でも教文短編演劇祭で継続されている公募制がこの時期に始まったことを思うと、感慨深いものがあります。
[世の中の出来事]
90年代前半はバブルが崩壊し、日本経済が低迷の一途を辿る時期ですが、札幌の演劇シーンに目を向けると盛り上がりを見せ始めていた時期と言えます。
教文の演劇事業の柱として、冬は当館の制作プロデュースのもとに札幌の演劇人が結集し合同公演を行う「教文演劇の夕べ」、夏は公募した市内の劇団公演を行う「演フェス」というように、季節ごとにコンセプトの異なる事業が展開していました。
演フェスは回を重ねるごとに市内のアマチュア劇団の発表の場として定着し、フェスティバル自体の認知度も少しずつ高まり始めます。1990年からは公募による5劇団の公演が組まれ、初参加の劇団も増える中、1993年には初めて市外からの参加劇団もラインナップ。1994年は過去最多の10劇団から応募があり、審査の結果6劇団が公演を行いました。参加劇団は結成37周年の老舗劇団から設立3年の若手劇団まで、上演作品は子どもと一緒に楽しめるものから古典や社会派まで、質の高さとバリエーションが共に充実していきます。
[世の中の出来事]
1995〜1997年の演フェスでは、これまでとさほど変わらない応募数ながら、2劇団を選出する形で実施。12回目となる1999年には、運営上の変化が現れます。一つは、これまで劇団ごとに設定されていた入場料が統一されたこと。もう一つは、地元の演劇人も加わった実行委員会形式による実施になったこと。99年の参加4団体を見ると、従来の劇団という形式とは異なる、期間限定で集まった集団ユニットの作品もラインナップされており、演劇人が積極的に演フェスの企画運営に関わり始めたことの影響が見られます。こうして新体制になったことで、翌年以降の演フェスコンテンツが大きく変化していくこととなります。
[世の中の出来事]